2000.11.26 病院からの帰り道、銀杏並木を通ってきた。私の実家にも銀杏の木があって、秋になって色づくと晴れた日はその黄色が目に眩しかった。四季の中で秋は自分が生まれた季節ということもあって、好きな季節だ。だいぶ昔だが、紅葉が真っ盛りの日光のいろは坂を訪れたことがあった。(実はそういう仕事をしていたので、日光へは実に何10回と行っている。)紅葉の時期というのは以外に短い。1週間ずれただけで、本当に美しい時は逃してしまう。その日は少し天気が悪く、宇都宮に入っても回復していなかったので、半ば諦めていた。日光の山々に濃い霧がかかっているのが下からもはっきり見えたからだ。いろは坂のカーブは乗用車では実はそれほどきつくも感じない。普通に運転できる人なら、怖がらなくても上っていける。それでも大き目のカーブだとほぼ180度に近い角度で曲がるので、景色がくるくる変わる。上り始めると一層霧は濃くなっていき、景色はほとんど見えなかった。それが途中にあるパーキングを過ぎた辺りから急に霧が無くなりだし、もうひとつカーブを曲って景色が変わった途端、目の前に燃えるような紅葉に彩られた日光の山が現れた。それは一瞬言葉を 失うほどの迫力で、一緒に乗っていた外人さん達は一斉に声を上げた。あれほどの紅葉はそれ以来お目にかかっていない。秋になって紅葉が始まった聞くと、またあの時のような感動を味わえないものかと思い、行ってみたくなる衝動に駆られるが、少し考えて実行はしない。忘れられないほど感動する場面と言うのは、それ以上のものを意図的に見ようと思ったところで見れた試しが無いからだ。そして2度目の色褪せた記憶に新しく塗り替えられてインプットされてしまう。それは恋愛に関しても同じ事が言えるだろうし、それで失敗を重ねてきたから、そう考えるようになったのかもしれない。とは言え、別れる時は綺麗な別れ方なんてできないだろうから、仕方がないのかもしれない。実際別れ方が悪かった人は、良かった時の思い出はほとんど無くなってしまっている。かと言っていい思い出を残すためにいい別れ方をするわけではないから、やっぱり仕方がない事なんだろうな。出会った時に別れる時の事を想像する人はいない。だいいち永遠に終る事は無いと、思っていなければ愛し合う意味が無い。けれどheartzさんと私の関係の場合は少し違う気がする。常に終わりの時を意識している気 がする。非現実的な関係だから、突然消えて無くなってもそこだけ切り取って、また元の生活に自然に馴染んでいける気がする。そんな儚いつながりのようで、すでに私は精神的にかなり依存し始めている。これ以上心を開け放したら、2度と戻れなくなるのではないかという不安が募る。そもそも心を解放する手段として決めたのだから、それでいいはずなのに、先の事を思ってはまだ悪あがきを続けている。このままheratzさんに頼りきって、突然私の前から消えてしまった時、私はどうやってその空いた大きな穴を埋めるのだろう。何が代わりになるだろう。でも私はまだ歩き始めたばかりだし、まだまだそんな事で悩んでいる所まで来ていない。今はheartzさんが私に忘れられないほどの感動を与えてくれる人だと信じて、ついていくだけだ。

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